――ステンレス、触媒、化学品、金属モリブデン「七つの顔」
「モリブデンを下さい」では商売にならない
「モリブデンを下さい」
そう言われても、長くこの商売をしてきた人間なら、すぐには見積書を書かない。
フェロモリブデンなのか。焙焼酸化モリブデンなのか。モリブデン酸アンモンなのか。モリブデン酸ソーダなのか。二硫化モリブデンなのか。それとも金属モリブデンの粉、棒、板、線なのか。
同じ元素記号Moでも、姿が変われば顧客も品質も値段も商習慣も変わる。鉄鋼原料を扱う人と、触媒原料を扱う人と、金属モリブデン加工品を扱う人とでは、同じモリブデンを語っていても、見ている市場がまるで違う。
私が初めてモリブデンを扱ったのは1978年頃である。中国・福建省の交易会で、福建省化工公司からモリブデン酸20トンを輸入し、日本無機化学株式会社に販売した。
当時の中国は改革開放へ踏み出そうとしていたが、貿易実務も品質管理も、今日とは比べものにならない。私にとって、この20トンは単なる初商いではなかった。後に45年以上付き合うことになるモリブデンという金属への入口だった。
鉱石から、いくつもの商品世界へ分かれる
モリブデンの代表的な鉱石は輝水鉛鉱、すなわち二硫化モリブデンである。鉱石を選鉱してMoS₂精鉱とし、それを空気中で焙焼すると、三酸化モリブデンを主体とする焙焼酸化物、いわゆるテクニカル・モリブデン・オキサイドになる。
ここが大きな分岐点である。
焙焼酸化物のまま鉄鋼に添加する道がある。酸化鉄とアルミニウムで還元し、フェロモリブデンにする道もある。さらに湿式精製によってモリブデン酸アンモンやモリブデン酸ソーダなどの化学品へ進む道がある。高純度酸化物を水素還元すれば金属モリブデン粉になり、焼結・加工を経て棒、板、線、電極になる。
国際モリブデン協会によれば、テクニカル酸化物の30〜40%はフェロモリブデンに加工され、FeMoのモリブデン含有量はおおむね60〜75%である。また、焙焼精鉱の約20%は化学品へ向かう。
モリブデン市場の本流は鉄鋼である。しかし、川は途中で幾筋にも分かれ、それぞれが独自の市場をつくっている。
第一の顔――304と316を分ける金属
ステンレスにおけるモリブデンの役割は、実に象徴的である。
一般的なSUS304は、クロムとニッケルを中心とする。一方、SUS316には、おおむね2%前後のモリブデンが加わる。このわずかな添加によって、塩化物環境での孔食や隙間腐食に対する抵抗力が高まる。
海岸、海水設備、化学プラント、食品・医薬設備、パルプ、排煙脱硫装置。腐食環境が厳しくなるほど、モリブデンの意味は大きくなる。さらに316L、317L、二相系ステンレス、6%Moスーパーオーステナイト鋼へ進めば、モリブデンは補助役ではなく、材料寿命を決める主役になる。
ステンレスメーカーにとって厄介なのは、添加量が少ないからといって、コストへの影響が小さいとは限らないことである。モリブデン相場が急騰すれば、316系の合金コストは直ちに悪化する。需要家は304への代替、薄肉化、設計変更を考える。しかし、腐食環境を無視してモリブデンを削れば、後になって何倍もの補修費を払うことになる。
モリブデンとは、材料価格を上げる金属であると同時に、設備の寿命を買う金属なのである。
第二の顔――特殊鋼を熱と摩耗から守る
モリブデンは特殊鋼、工具鋼、高速度鋼、耐熱鋼でも重要である。焼入れ性を高め、高温での強度低下を抑え、耐摩耗性を改善する。エネルギー設備、自動車、金型、航空機など、熱と荷重が同時にかかる場所で力を発揮する。
一般鋼向けの商売では、価格と数量が前面に出る。ところが特殊鋼向けでは、不純物、粒度、歩留まり、ロットの安定性、納期の確実さが重くなる。顧客が買っているのはモリブデンの重量ではない。鋼材が予定通りの性能を出すという確実性である。
第三の顔――化学品になると商売の言葉が変わる
モリブデン酸アンモン、モリブデン酸ソーダ、高純度酸化モリブデンは、触媒、防錆剤、顔料、ガラス、セラミックス、難燃剤、電子材料、農業用微量要素などに使われる。
鉄鋼原料では、主として含有量と代表的な不純物が問題になる。化学品では、それだけでは足りない。純度、溶解性、粒度、結晶形、微量不純物、ロット間の再現性が問われる。少量のサンプル評価に長い時間がかかり、認証された原料は簡単に別の供給元へ切り替えられない。
1978年に私が輸入した福建省のモリブデン酸20トンも、この化学品の世界に属していた。仕入先は福建省化工公司、販売先は日本無機化学だった。まだ中国品が国際市場で十分な信頼を得ていない時代に、日本の需要家へ中国のモリブデン化学品をつないだのである。
1980年前後の中国製品は、率直に言えば「安かろう、悪かろう」の時代だった。しかし、買い手側も完成品と同じ品質を期待していたわけではない。再精製や選別を前提とする中間原料として評価していたため、今日の感覚から見れば意外なほど大きなクレームにはならなかった。
品質が低かったから問題がなかったのではない。用途と限界を、売り手も買い手も理解していたのである。
第四の顔――触媒になれば硫黄を取る
モリブデン化合物の重要用途の一つが石油精製触媒である。コバルト・モリブデン系、ニッケル・モリブデン系の触媒は、石油中の硫黄分を除去する水素化脱硫工程を支える。
環境規制が厳しくなり、低硫黄燃料が求められるほど、触媒用モリブデンの役割は大きくなる。鉄鋼需要が景気循環に左右される一方、触媒需要は燃料品質規制や製油所の定期交換という別の時間軸で動く。
そして触媒には、使用後のもう一つの市場がある。使用済み脱硫触媒には、モリブデンだけでなくニッケルやコバルトも残る。これを廃棄物として見るのか、都市鉱山として見るのかで、商売はまったく変わる。
モリブデン市況が高騰した時期、中国産のモリブデン酸アンモンや触媒関連原料の輸入量が一気に増えたことがある。高値は需要家を苦しめる一方、それまで採算に乗らなかった供給や回収を市場へ呼び戻す。相場とは、眠っていた原料に声をかけるものでもある。
第五の顔――MoS₂は、滑らせるために使われる
二硫化モリブデンは、鉱石であると同時に優れた固体潤滑剤でもある。層状構造を持ち、層と層が滑りやすいため、摩擦と摩耗を減らす。
グリース、ペースト、焼付け皮膜、重機、軸受、歯車、金属加工に使われ、真空中でも潤滑性を発揮する。国際モリブデン協会によれば、MoS₂は大気中で極低温から約350度、真空または不活性雰囲気ではさらに高温域まで潤滑性を保つ。
だが、選鉱したモリブデン精鉱を、そのまま高級潤滑剤として売れるわけではない。純度、粒度、夾雑物、表面性状が違う。ここでも「MoS₂なら同じ」という発想は通用しない。
市況高騰時には、中国からMoS₂の輸入も急増した。しかし数量が増えれば、すべてが同じ品質で来るわけではない。用途を知らずに価格だけで仕入れると、安い原料が最も高い損失になる。
第六の顔――金属になると、溶けにくさが価値になる
金属モリブデンは融点が約2620度と高く、高温でも強度と寸法安定性を保つ。粉末冶金でつくられ、棒、板、線、るつぼ、炉の発熱体や遮熱板、ガラス溶融電極、X線管、半導体用部材などに加工される。
ここでは鉄鋼用原料以上に、粉末の純度、粒度分布、焼結性、加工組織がものをいう。
私も中国製のモリブデン粉、棒、板、線を扱ったが、初期の製品は品質が悪く、加工品にはなかなか適さなかった。分析上はモリブデンでも、圧延すれば割れる、線に引けば切れる、寸法が安定しない。元素純度だけでは、加工性能は保証されないのである。
この経験から学んだのは、金属材料は成分表だけでは買えないということだった。製造履歴、粉末のつくり方、焼結、熱間加工、品質管理まで見なければ、同じ「金属モリブデン」でも別の商品である。
第七の顔――電子産業では薄さと純度が価値になる
金属モリブデンは、半導体用ヒートシンク、薄膜形成用ターゲット、電極、配線材料などにも使われる。重いフェロアロイの世界から、オングストローム単位の薄膜の世界へ入るのである。
ここでは、トン単位の安さより、微量不純物、表面欠陥、寸法精度、認証、トレーサビリティが重要になる。モリブデンの価値は重量から機能へ移り、キログラム当たり、グラム当たりの価格はまったく違うものになる。
フェロモリブデンと半導体用ターゲットは、原子番号42という一点では同じだ。しかし商売としては、ほとんど別の宇宙に属している。
河南省の商談と、後のCMOC
フェロモリブデンの商談で印象深いのは、河南省の化工公司との取引である。
河南省洛陽周辺には、後に世界的な資源会社となる洛陽モリブデン、現在のCMOCへつながる巨大な鉱業基盤があった。CMOCの前身は1969年に創立され、現在では銅、コバルト、モリブデン、タングステン、ニオブまで扱う世界企業に成長している。
私が河南省で商談をしていた当時、その企業群が今日の姿になると、どれほどの人が想像していただろうか。
中国のモリブデン産業は、安価な中間原料の供給者から始まり、鉱山、選鉱、焙焼、フェロアロイ、化学品、金属加工までを備えた一大産業へ変わった。私の45年以上の商売人生は、その変化を外から眺めたのではない。品質交渉をし、価格を詰め、酒を酌み交わしながら、その真ん中を歩いてきたのである。
北京の大宴会で池に落ちた
中国との商売で忘れられない人物がいる。北京の化工総公司の朱恵龍女史である。
長期契約交渉は、会議室だけでは終わらない。条件を詰め、互いの腹を探り、最後は宴席で人間を知る。それが当時の中国貿易だった。
北京で開かれた大宴会の最中、私は店内に設けられていた池に落ちた。どのような弾みだったかは、今となっては商談条件以上に曖昧である。しかし、ずぶ濡れになった私を囲んで皆が笑い、その場の空気が一気に和らいだことは鮮明に覚えている。
契約書には、価格、数量、品位、納期は書ける。だが、相手と長く付き合えるかどうかまでは書けない。
池に落ちたこと自体は失敗だったかもしれない。しかし、その後も朱恵龍女史と長い交渉を続けられたことを思えば、あの池は日中モリブデン貿易の洗礼の水だったのかもしれない。
一つの元素、七つの市場
モリブデンは、ステンレス、特殊鋼、化学品、触媒、潤滑剤、耐熱金属、電子材料という七つの顔を持つ。
鉄鋼では、含有量、歩留まり、価格が中心になる。化学品では、純度、溶解性、結晶、認証が問われる。触媒では、反応性能と回収が重要になる。潤滑剤では、粒度と層状構造が働く。金属加工品では、焼結性と加工履歴が製品の生死を分ける。電子材料では、微量不純物と表面精度が価値を決める。
だから、モリブデン市場を一つの需給表だけで理解することはできない。
そして中国の成長も、単に生産量が増えたという話ではない。1978年に私が買ったモリブデン酸は、安い中間物として日本へ来た。今日の中国は、鉱山からフェロモリ、化学品、金属モリブデン、高純度材料までを供給する。
「安かろう、悪かろう」の供給国が、工程と市場を持つ産業大国へ変わった。その変化を理解しなければ、これからのモリブデンも、中国の合金鉄支配も見えてこない。
モリブデンは、鉄に入れば錆を防ぎ、触媒になれば硫黄を取り、金属になれば熱に耐える。
そして商売人の手に渡れば、一つの元素から七つの市場が立ち上がるのである。