――二百夜を越えて、一九七八年の広州へ
歳月は、記憶から数字を奪い、人の面影を残してゆく。
かつて暗記していた契約の数量や単価は、いつしか曖昧になった。けれども、商談の席でこちらを見つめていた目や、品質のことで叱られた時の声は、半世紀近くを経た今も、不思議なほど鮮やかである。
「レアメタル千夜一夜」が二百夜を超えた。
金属を語っているつもりで、振り返れば、ずいぶん多くの人のことを書いてきた。鉱山にも工場にも商談の席にも、それぞれの人生があり、私の仕事は、その人たちとの出会いによって形づくられてきた。
この節目に、商売の原点へ帰ってみたい。
記憶をたどると、そこには、まだ豊かになる前の中国と、何者にもなっていなかった私がいる。
一九七八年、春。
私のタングステン貿易は、広州交易会から始まった。
*
初めて訪れた広州には、暮らしの貧しさが色濃く残っていた。
海外から来た私たちを、市民が遠巻きに眺めていた。そのまなざしは、若い私には、遠い世界への憧れを含んでいるように見えた。
もちろん、胸の内までは分からない。ただ、こちらが何げなく身につけているもの、当たり前に手にしているものが、彼らには容易に届かない品なのだと、その視線から感じたことを覚えている。
同じ時を生きながら、暮らしの隔たりは大きかった。
ところが、交易会の商談の席に着くと、中国のもう一つの顔に出会った。
貿易公司の担当者たちは、知的で、優秀だった。
こちらの説明をよく聞き、条件の要所をつかみ、容易には譲らない。物資の乏しい国に、これほど豊かな人材がいる。そのことが、私には強い印象を残した。
改革開放が政策として大きく動き出すのは、その年の末である。しかし、春の交易会にも、外の世界へ向かおうとする気配があった。
その後、開放と地方の裁量拡大が進むにつれ、担当者たちの熱意はいっそう目に見えるものとなった。
資源を売り、外貨を得て、設備を整え、国を豊かにする。
彼らは目の前の契約を交渉しながら、その先にある自分たちの未来を見ていた。
私は同僚に言った。
「いずれ、中国は世界を圧倒するようになる」
会社に戻って同じ話をすると、先輩たちには笑われた。
あの貧しい中国が、何を言うか。若い担当者が交易会の熱気に当てられたのだろう。そんなふうに思われたのかもしれない。
無理もない。当時の街の姿から、後年の中国を思い描くのは難しかった。
だが、私が見ていたのは、街の豊かさよりも、商談相手の目の光だった。
今にして思えば、あの直感は正しかった。ただし、その変化がこれほど速く、これほど大きくなるとは、私自身も想像していなかった。
*
当時、私は繊維を主力とする中堅商社の若い担当者だった。
日本のタングステン産業には既に長い歴史があり、韓国の大韓重石や、オーストラリアのキングアイランドなどが重要な供給源となっていた。
中国にも豊かな資源はあった。しかし、地下に鉱石があることと、日本の工場で使える原料が届くことの間には、長い道のりがあった。
私の初めての成約は、福建省の小さな化学工場がつくったタングステンソーダ、タングステン酸ナトリウムである。
日本無機化学工業に、顔料の原料として使っていただくことになった。
数量は五トンだった。
後年の取引からすれば、ささやかな荷物である。それでも、その時の私には、自分の手でようやく押し開けた、重い扉のように思えた。
その扉の向こうには、喜びより先に、商売の厳しさが待っていた。
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届いたドラム缶から、れんがやぼろ切れが出てきた。
化学品を輸入したつもりが、思いもよらないものまで海を渡ってきたのである。今なら笑って話せるが、当時は顔から血の気が引いた。
日本無機化学の中条工場長から受けた叱責は、今も忘れられない。
細かな言葉の一つ一つよりも、その厳しさが胸に残っている。
使えるはずの原料が使えなければ、工場の仕事に差し障る。担当者が若いことも、中国の生産体制が整っていないことも、お客様には弁解にならなかった。
私は頭を下げ、中国側に事情を伝え、改善を求めた。
次こそはと思って待つ。それでも、また問題が起きる。
文化大革命の混乱は、生産の現場にも影を落としていた。品質管理や荷造りの仕組みが十分ではなく、貿易担当者に伝えた要求が、そのまま工場の隅々まで届くわけでもなかった。
現地の事情を聞けば、理解できることはあった。
しかし、事情を理解したところで、不良品が使える品に変わるわけではない。その間に立ち、最後まで責任を負うのが、輸入した商社だった。
中条工場長は、私にそのことを教えてくださった。
安く買うだけでは足りない。約束した品を、約束した品質で届ける。その当たり前のことができて初めて、商人として相手にしていただける。
若い私には耳の痛い教えだったが、その後の商売を支えたのは、まさにその教えであった。
*
東京タングステンにも、何度も通った。
会社が近くにあったのを幸いに、十分な約束もせず、売り込みに押しかけた。知識の乏しさを、訪問の回数で埋めようとしていたのである。
購買を担当しておられた福島さんには、随分ご迷惑をおかけした。
とうとう、こんな言葉をいただいた。
「買ってあげるから、もう来ないでくれ」
こちらは注文をいただけたのがうれしく、そのお言葉に含まれた疲れまでは、察していなかった。
若さとは、ありがたいものであり、時には、はた迷惑なものでもある。
最初に売り込んだのはモリブデンソーダだった。そこからタングステンの相談にも乗っていただき、やがてAPTやタングステン酸へと仕事が広がっていった。
あの頃のお客様は厳しかった。
それでも、何も知らない若者に、仕事を覚える場所を与えてくださった。断られても通える先があったこと自体、今思えば幸せだったのである。
*
東京タングステンの中尾智三郎社長にも、忘れられないご恩がある。
住友電工の超硬事業に深く携わってこられた、技術の大先輩だった。
中国から技術者や貿易担当者が来日すると、私はお客様のもとへお連れした。商社が双方の説明を取り次ぐだけでは、解けない問題があったからである。
どの不純物が問題なのか。何が製造工程に影響するのか。どこを改めれば、安定して使える原料になるのか。
そうした話し合いに、中尾社長自ら出てきてくださった。
日本新金属では、板倉社長、安藤専務、安藤博課長らにお世話になった。
中国の技術が遅れているのなら、日本の技術を教えてあげればよいではないか。
板倉社長からいただいた、そういう趣旨のお言葉が、今も心に残っている。
不良を指摘するだけで終わらず、次の荷物をよくするために知恵を貸してくださった。その厚意に、私たちは幾度も救われた。
江西省や湖南省の工場とのやり取りを重ね、日本の要求を伝え、中国の事情を聞いた。現地にも、改善に懸命に取り組む技術者がいた。
一度で済むことは少なかった。
それでも、荷物は少しずつよくなった。
検査の結果を聞いて胸をなで下ろし、次の注文をいただいて、ようやく笑う。そんな小さな積み重ねの中に、私の商売の喜びがあった。
*
タングステンは「戦争金属」とも呼ばれるのだと、先輩たちから教わった。
その名には、資源をめぐる時代の暗い記憶がまとわりついていた。
一方、私が日々届けようとしていたのは、日本の工場で使われる原料だった。切削工具などの性能を支え、機械をつくる現場につながっていた。
小さな不純物が、使う側には大きな問題となる。
そのことが分かるにつれ、お客様の厳しい言葉の向こうに、製品への責任が見えるようになった。
原料を売る。その短い言葉の中には、つくる人の苦労も、使う人の心配も含まれていた。
私は、その両方を知るのに、長い時間を要した。
*
一九八〇年代に入ると、取引は次第に大きくなった。
中国側の輸出体制も変わり、商談の相手も移っていった。そのたびに会って話し、以前の経緯を伝え、契約を積み重ねた。
北京の人民大会堂で開かれた祝宴を、私は今も覚えている。
その頃、日本向けのタングステンの長期契約がまとまった。記憶では、二十億円を超える規模だった。
宴の途中、突然、私の名前が呼ばれた。
契約に携わった担当者として壇上に招かれ、表彰状をいただいたのである。
中堅商社の一担当者にとって、あまりにも晴れがましい舞台だった。
最初の五トンから、ここまで来たのか。
そう思った時、喜びとともに、お客様や技術者の方々の顔が浮かんだ。
れんがの混じった荷物に怒ってくださった人。幾度もの訪問に応じてくださった人。品質改善のために時間を割いてくださった人。
中国の工場で、こちらの難しい注文に取り組んだ人たちもいた。
あの壇上に立っていたのは一人だったが、そこまでの道は、大勢の人に支えられていた。
中国の資源と、日本の技術をつなぐ。
この仕事を一生続けたいと、私は思った。
*
人から受けた厚情を思う時、李白の「贈汪倫」が心に浮かぶ。
李白乘舟將欲行
忽聞岸上踏歌聲
桃花潭水深千尺
不及汪倫送我情
李白が舟に乗り、旅立とうとすると、岸から足拍子を踏んで歌う声が聞こえてくる。桃花潭の水は千尺もの深さがあるというが、それでも、見送ってくれる汪倫の情には及ばない。
別れの岸辺に響いた歌声が、千年以上の歳月を越えて、今も聞こえるような詩である。
若い頃の私は、旅立つ舟の方ばかりを見ていた。
次の商談、次の契約、まだ見ぬ鉱山。前へ進むことに心を奪われ、自分を岸から送り出してくれた人たちを、十分には振り返らなかった。
歳を重ねて、その岸辺に立っていた人々の姿が見えるようになった。
私を叱り、教え、時には困った顔をしながらも、次の機会を与えてくださったお客様。条件をめぐって激しく交渉しながら、取引を続けてくれた中国の担当者たち。
その人たちがいなければ、私の舟は、遠くまで行けなかった。
*
私は卑金属を金に変える錬金術師にはなれなかった。
けれども、使えなかった原料が使えるようになり、一度きりの注文が長い取引になる。その過程には、幾度も立ち会うことができた。
いつしか「山師」と呼ばれ、「レアメタルキング」とまで呼んでいただくようになった。
いささか面映ゆい呼び名である。
その私を育てたのは、中国貿易だった。そして、厳しかったお客様だった。
なかでも、中条工場長の叱責は、私の商売の底に、今も消えずに残っている。あの時、若いからと見逃されていたなら、私は責任の重さを覚えないまま、歳だけを重ねていたかもしれない。
歳月を経て分かる恩がある。
その場ではつらかった言葉が、後になって、自分を支えていたと気づくことがある。
「レアメタル千夜一夜」が二百夜を超えた今、あらためて、その恩を書き留めておきたい。
叱ってくださったお客様に、心から感謝している。
未熟な私との商売を続けてくれた、中国の人たちにも感謝している。
一九七八年春の広州。遠巻きに私たちを眺めていた市民。商談の席で未来を語った担当者たち。そして、日本で私を待っていた厳しいお客様。
記憶の写真は、すっかりセピア色になった。
けれども、そこに写る人々のまなざしは、今も色褪せてはいない。
桃花潭水深千尺、不及汪倫送我情。
商売の数字は忘れても、いただいた情は忘れない。
二百夜の節目に、私が書き残したいのは、そのことである。