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JFE京浜地区第2高炉、とうとう休止を迎える

 JFEスチール東日本製鉄所京浜地区(川崎市)の第2高炉が、とうとう16日に休止し、高炉と製鋼工場、熱延鋼板ラインが止まる。高炉は、それ自体が発電所でもあるので、ややもったいない感はある。
 

 高炉跡地を水素・アンモニア供給基地にするなど高炉跡地再開発方針は発表されたものの、解体撤去、土壌改良、基盤整備など少なくても10年以上かかるであろうから、まだまだ先のことである。

 

 東日本千葉地区(千葉市)の第一冷延工場(缶用鋼板関連)の休止の時もOGとしては自分たちの努力の結晶がゼロになってしまったような残念な思いがあったが、高炉がある主要部の人工島「扇島」に愛着を持つOBも多く、さみしい思いをされているものと思う。

 

 写真は2019年に工場見学に参加した時のものである。思い出の写真となってしまった。

 

 

 日本鋼管は社史が充実している。日本鋼管株式会社三十年史(1942年刊)の復刻版である、社史でみる日本のモノづくり第7巻及び日本鋼管株式会社七十年史をもとに、日本鋼管及び扇島についてみてみることとした。

 

 まず、設立であるが、日本鋼管は1912年、明治45年6月、その名にあるように、鋼管専業会社として設立された。鋼管は他の普通鋼鋼材とは、その生産方法も著しく異なり、高度の経営設備と技術を必要とする。当時絶対的地位を占めていた官営八幡製鐵所も着手しえなかったほどの高級製品分野を新たに開拓したのである。

 

 官営八幡製鐵所の営業不振をみて、「鉄はもうからぬもの」としていた当時において、民間鉄鋼業の基礎を築きあげた功績は、高く評価されるべきものである。

 

 1914年(大正3年)には1号平炉を稼働させ継目無鋼鋼管の製造を開始した。輸入インド銑鉄と国内屑とによる平炉製鋼を開始した。

 当時、日本鋼管以外に年5千トン以上鉄鋼生産能力を備えていた民営工場は、釜石の田中製鐵所、室蘭の日本製鋼所及び輪西製鐵、阪神地方にある住友鋳鋼所、神戸製鋼所、川崎造船兵庫工場の6工場であった。

 

 大正3年においては、八幡製鐵所の生産高は国内総生産高に対して、銑鉄で74%、鋼材で82%と絶対的な地位を占めていた。大正7年になると銑鉄では47 %、鋼材では57 %となり。銑鉄では民間企業が八幡をリードした。

 

 日本鋼管とは直接関係はないが、大正3年夏に勃発した第一次大戦から、大正7年11月の休戦成立に至るまでの5年間の鉄鋼業界の発展を参考までに記載する。

 

 三菱造船会社の神戸製造所並びに長崎造船所と安来製鋼所の3工場は戦時中5千トン以上の年産能力に拡張され、戦争前に建設中であった桑原鐵工及び戸畑鋳物も戦時中に作業を開始した。

 大戦中に新設された工場で年産能力5千トン以上となったものを見てみると、

大正4年には6個(大島製鋼所、日東製鋼本工場及び川崎工場、大阪製鐵、藤田鉱業会社広田製鋼所、日本特殊鋼合資会社)、翌5年には7個(日本鎔鋼所東京工場及び大阪工場、山陽製鐵、東京鋼材、大蔵鉱業山陽製鐵所、岸本製鐵、浅野小倉製鋼所)、翌6年には11個(富士製鋼、日本高速度鋼、高田鉱業会社大寺製鋼所、東京銑鐵、帝国製鐵、墨田川精鐵所、電気製鐵、日本銑鐵、九州製鋼、東洋製鐵、日本製鐵)、7年にはさらに6個(日本電気製鐵、石狩製鐵所、後志製鐵、川崎造船所葺合工場、長崎製鐵、岩淵製鐵)以上合計30個に達した。

 

 戦前前には民間に僅か7個しかなかった年産5千トン以上の工場は、大戦直後には42個に増加した。

 

 その結果、国内の鉄鋼生産は大正3年から大正7年の間に、銑鉄が30万トンから58万トン(約2倍)、鋼材が28万トンから54万トン(約2倍)、鋼管が5,000トンから2万3,000トン(約4.6倍)へとそれぞれ増加した。

 

 日本鋼管は、鋼塊6,991トンから6万6,882トン、鋼管は3.171トンから1万5,900トン、その他鋼材は2万4,888トンとなった。大正7年度は新たにスポンジ鉄5,500トン、銑鉄500トン、合金鉄117万トンを生産した。

 

 日本鋼管の従業員も4000人以上に達した。

 

 しかし、各国からの輸出を禁止した状況にもかかわらず、輸入業者があらゆる手段を講じた結果、輸入鋼材も増加し、銑鉄が17万トンから22万5千トン(約1.3倍)、鋼材が40万トンから60万トン(約1.2倍)、鋼管が2万9,000トンから3万5,000トン(約1.2倍)へそれぞれ増加した。

 

 鉄鋼業は軍需の消滅に代わって民需が増大し、鉄鋼需要そのものは増加したにもかかわらず、海外諸国からの投げ売り競争により、市況は低迷し、不況に陥った。銑鉄及び鋼材ともに約4割が輸入品でまかなわれた。大正12~13年ごろまでアメリカ、イギリスが輸出国の上位を占めていたが、14年以降になると欧州大陸の進出が急となり、特にドイツ及びベルギーの2か国からの鉄鋼輸入は、昭和初頭にはわが国鋼材輸入量の約半分を占めるにいたった。

 大正13年末までに22社が廃業した。ことに製銑業では20社中12社まで淘汰された。

 

 昭和15年からインド銑の輸入高はうなぎのぼりに増加した。

 銑鉄業者は銑鉄共同組合を結成し、インド銑鉄の駆逐を図ったが、製鋼業者(銑鉄部門を持たない製鋼・圧延業者)は価格の割安なインド銑の進出を歓迎したので、成功しなかった。

 

 製銑地区として確保しておいた7万坪の扇町地区に、昭和11年(1936年)6月に高炉火入れを行った。位置の関係でこれを第2高炉、さらに昭和12年2月に火入れを行った高炉を第1高炉とした。

 

 業界紙によれば、9月7日に報道陣向け説明会に臨んだ古米孝行京浜地区所長が1918年(大正7年)に第1高炉が完成して以来、約100年にわたり高炉の火をともし続けてきた述べたようであるが、これは、5月に建設された小型高炉を含めているようである。大正6年末小規模ながら高炉三基(20トン一基、25トン二基)を建設して銑鉄の自給をはかった。20トン炉は7年11月に完成して作業を開始したが、残りの二基は建設中に大戦が収束したので中止されている。

 

 さて、一気に、扇島の話に戻ろう。

 

 昭和44年3月“扇島計画”により、京浜製鉄所扇島原料センター地先海面に約515万平方メートル(約155万坪)を埋め立て、“新扇島”に、大型高炉2基及びこれに対応する原料ヤード、コークス、焼結、成功、連続鋳造、分塊、厚板その他の付帯設備を新設し、京浜製鉄所そのものを全面更新して、扇島にリプレースした跡地を含めて冷延鋼板、表面処理鋼板製造施設ならびに鋼管製造設備の集約再編成、環境対策を実施する計画が策定された。

 扇島計画は、高生産性の追求、省エネルギー・省資源の追求及び環境改善の徹底化を重視したものであった。

 

 扇島埋立てに要する期間は当初5年間はかかるとみられていたが、実際には2年5か月の昭和49年9月までには、扇島第1高炉関連工事に必要な敷地を確保し、50年8月にはすべての埋立工事を完了した。3年9か月で済んだのである。埋立に必要な土砂量7,000立法メートルは東京湾対岸の千葉県富津市浅間山周辺の土砂を使用した。

 

 原料岸壁には20万重量トンの鉱石専用線の接岸可能な水深23メートルのものを含めて三つのバースを建設し、前面海域には推進23メートルの泊地を作った。製品岸壁も3万重量トンという大型の輸出本船が接岸できるようにした。

 

 この間、オイルショックによる不況に直面し、産業界が軒並み設備投資をとりやめていた中、扇島建設計画という大設備投資は敢行された。扇島第1高炉関連工事は不況のさなかの昭和51年(1976年)11月に完成し、引き続き第2高炉関連工事に着工して京浜製鉄所の全面更新を精力的に進めた。

 昭和54年度には、わが国経済は、自律的・本格的な景気上昇過程に入った。ところが53年末のイラン情勢不安に端を発した石油情勢の悪化は、54年に至って石油輸出国の原油価格の大幅値上げとなり、第2次オイルショックに見舞われた。

 

 この期間、扇島第2高炉関連工事を進め、昭和54年7月の題2高炉火入れによって京浜製鉄所は粗鋼年産600万トン規模となった。昭和53年には既存地区にあった7基の高炉はすべて休止した。55年度には550万トンにまで復活した。

 

 業界紙によれば、1976年の扇島での高炉火入れから1.9億トンとなるようである。

 

 

(IRUNIVERSE tetsukoFY)

 

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