サムネイル画像元:読売新聞オンライン
2025年1月28日(火)午前9時50分ごろ、八潮市中央一丁目の県道松戸草加線交差点付近で、突然、道路が大きく陥没した。
朝の交通量が増え始める時間帯、交差点を直進していたトラックが陥没穴に転落し、運転していた男性が巻き込まれるという、極めて痛ましい事故である。
陥没は直径5メートル以上、深さは10メートルを超えるとされ、現場は直ちに通行止めとなった。
地下には流域下水道の幹線が通っており、埼玉県は早い段階から「下水道管の破損による漏水が原因」との見方を示した。
この説明を受け、マスコミ各社は一様に「老朽化した下水道管が腐食し、漏水によって地中に空洞が生じ、道路が陥没した」
という構図で報道を続けている。
そして多くの場合、その矛先は「国のインフラ投資不足」「行政の責任」に向けられる。
だが、ここで一度立ち止まる必要がある。
責任の所在を拙速に国へと押し付ける前に、本当に現場を取材し、現象を理解しようとしているのか という点だ。
老朽化という言葉を使えば説明は簡単になる。
国の予算、制度、責任論に落とし込めば、記事は書きやすい。
しかし、それは 「考えたようで、実は考えていない」報道 になってはいないだろうか。
事故後の現場で何が起きているのか。
地下環境はどう変化したのか。
なぜ救助がこれほど難航したのか。
なぜ道路の下の問題が、地表の生活環境にまで影響しているのか。
これらを一つひとつ丁寧に追わずに、国の責任論へと短絡的に結論づけるのであれば、それはもはや「取材」ではなく、「型にはめた解釈」にすぎない。
皮肉なことに、公開情報を整理し、事実関係を積み上げ、「何が説明されていないのか」「どこに違和感があるのか」を抽出するという点では、今や人間の記者よりもAIの方が冷静で、精度が高い場面すらある。
もちろん、AIが現場に立つことはできない。
だからこそ、本来は人間の記者が、現場でしか得られない感覚と事実をもとに、一歩踏み込んだ問いを投げかけるべきではないのか。
事故後の救助活動は、当初の想定を大きく超えて長期化した。
地下では空洞が広範囲に広がっており、重機を入れるたびに地盤が崩れる危険が生じるなど、現場は極めて不安定な状態が続いた。
結果として、トラックの運転手の救出は困難を極め、発見までに長い時間を要することとなった。
さらに注目すべきなのは、事故後しばらくしてから浮かび上がってきた、周辺住民の生活環境の変化である。
テレビ朝日の報道では、事故現場からおよそ100メートル以内で、
- 車のエンブレムや金属部分が黒ずんだ
- シャワーの金具や屋外設備の金属が変色している
- これまでにない速さで錆が進んでいる
といった住民の声が紹介されている。
また、埼玉新聞では、事故後に県が見舞金支給を決めた背景として、金属腐食や生活環境への不安を訴える住民の声がある ことが報じられている。
下水道内で発生する硫化水素が、コンクリートや金属を腐食させること自体は広く知られている。
しかし、それは通常、管路内部や閉鎖空間で問題となる現象だ。
生活排水由来の下水から発生する硫化水素が、地表付近にまで影響し、周囲の車両や住宅設備の金属を腐食させる
この説明がどこまで妥当なのかについて、十分な検証がなされたとは言い難い。
それでも報道の多くは、「老朽化」「国の責任」という枠組みの中で議論を完結させてしまう。
その結果、本来問われるべき
「なぜここまでの腐食が起きたのか」
「排水の中身に変化はなかったのか」
「長年見過ごされてきた構造的な問題はなかったのか」
といった核心部分が、置き去りにされているように見える。
次回は、
排水でここまでの硫化水素が本当に発生するのか、そして なぜこの問題が、ある特定の業界と無関係ではない可能性があるのか について、もう一歩踏み込んで整理してみたい。
老朽化という便利な言葉と、安易な責任論の陰で、何が見過ごされてきたのか。
それを問い直すことこそが、次の事故を防ぐために必要な視点ではないだろうか。
(環境リサイクル業界専門ライター 利祭来留夫)