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鉄子の部屋#34 「たたら製鉄の近代史」シリーズ⑥ 筆甫たたらのあゆみ

 新型コロナの感染により復元たたら操業の多くが中止さている中、4月17日宮城県丸森町の筆甫地区での“たたら製鉄”に招待され、久しぶりに鉄子の部屋の執筆に戻ってみることとした。

 

 宮城県丸森町筆甫(ひっぽ)は、宮城県の最南端に位置し、福島県との県境にあり80 %が山に囲まれ、標高300 m~650 mの山間地である。中心部の集落から峠を越えると福島県となり、南東部に相馬市、南に伊達市霊山町、南西部に伊達市染川町と接している。

 

 田口勇、尾崎保博編 “みちのくの鉄”-仙台藩烔屋(どうや:製錬所)製鉄の歴史と科学-によると、

 “丸森町の西境、筆甫は福島県伊達郡東根の一部であり、中世伊達氏の重要な所領「金原保」に属しており、延元四年(1339年)伊達為景相伝状などには「(陸奥国)かなはらのほうのうち、ひつほのむら」などとみえているが、岩出山、のち仙台に封じられた伊達政宗が慶長の頃に、切り取って伊具郡に編入してしまう。寛永八年には「寛永六年ふんの御年貢くろかね拾八駄内七駄かたニハふきかね候間拾二駄かたにありわたし申候如何件」と滞納しており、生産量もあまり多いようではない。”と書かれている。

 

 藩政時代の製鉄に関する文献もこの地域にはあまり見られない。古くから知られているのは伊具郡丸森町筆甫の庄司家古文書に含まれる、元和二年(1616年)今泉浜・大戸浜・釣師(つるし)浜、埒(らち)浜及び宮崎県の中浜の5か所での砂鉄洗い取り許可状、元和四年(1616年)及び寛永八年(1631年)の御年貢鉄送状がある程度である。

 

 筆甫では、後で切支丹探索を受けた東海林備後が藩主正宗から元和元年(1615年)製鉄の命を受け、村内6か所に烔屋を設け、34人で鉄を吹き年間109駄(約7トン)を御年貢鉄として寛永八年(1631年)頃まで仙台鉄砲町へ送っている。[1610年(慶長15年)にキリシタン武士の東海林備後によって製鉄技術が村人に伝えられたという記述もある。]原料となる砂鉄は、福島県新地町の今泉浜、大戸浜、釣師浜、埒浜及び宮城県の中浜などの海岸から砂鉄を運び、火力の強い楢・檪の木炭と、流れ水の豊富な平場・東山・砂川・鷲平・郡見などで製鉄を行った。

 

 金山からも鉄が産出し、戦国時代の武将武田信玄が愛用したという「諏訪法性の兜」(すわほっしょうのかぶと)は、金山産の鉄で作ったという伝えもある。

 

 耕屋では、元文三年(1738年)に製鉄をしている。その年、仙台藩が御用鉄として米沢や二本松へ鉄を輸出するので、藩の鉄元締である佐藤茂衛門が回村し、沼ノ上屋敷の斎藤六郎右衛門宅を御鉄宿に指定している。六右衛門は御城米問屋であるためか鉄の出荷にも努めている。当時の村肝入谷津甚助は明和四年(1767年)藩の御金山下代(鉄山下役人)となって、村の烔屋を取り仕切っている。耕屋には金子石(製鉄過程でできた鉱滓の呼び名)の散在状況から40か所ぐらいの烔屋があったとされている。

 

 江戸中期になると、徳川幕府が安定し仙台藩の勢力圏も確定する。その結果、製鉄の主流は質の良い砂鉄が採れ、大型の鞴を使って鉄生産をしていた北上山地の南部へ移り、仙南・丸森の製鉄も廃れていったと見られている。

 

 文献に乏しい反面、多くの鉄滓の散布が報告されている。昭和54年に尾崎保博氏が宮城県の委託調査で丸森町町史編纂室を訪ねた折、「筆甫地区に5~6か所、その東方東山に8か所、福島県伊達郡染川町との境である耕谷(こうや)には40か所、町東部の金山・台町方面にも多く分布している」としている。

 

 丸森町中心部より筆甫方面に向かうバス路線沿いに、群見遺跡がある。沢の奥の南斜面に大量の鉄滓が堆積し、つる草を分けると一面に黒い鉄滓が見られたそうである。上部に10 m×20 m程の平地があり、ここが製錬の行われた地域と考えられているが、残念ながら炉壁及び羽口は見つかっていない。遺跡の大半は昭和40年代の開田作業で壊滅し、平成4年になって改めて調査した折には、漆坊屋敷・東山・鷲ヶ平などに鉄滓出土地が残るのみであったとのこと。

 

 現存する庄司家の当主は16代目にあたる。この古文書から筆甫の歴史を再認識することとなり、改めて当時の製鉄技術はどうであったかを知りたいと考え、筆甫に在住する7名が平成14年(2002年)2月に「筆甫の製鉄を復元する会」を発足させ、約19年間、鉄造りに挑戦してきた。第16代目にあたる庄司一郎氏が現在は参加している。

 

 丸森町の地域おこしの一環として、年4回操業しており、2022年1月には第76回目が行われた。たたら製鉄の操業については、一子相伝の形で技術が伝承されたため、分からないことが多いが、できるだけ筆甫の史実に基づいて操業しながら当時の様子を再現していく方針とした。しかし、当初は製鉄についての知識が無かった。日本刀の源流を探っていた、塩竈神社・尾崎保博氏との出会いをきっかけに、東北歴史博物館・千葉正利氏、東北大学教授・高橋礼二郎氏などの紹介を受け、協力を仰ぎながら鉄造りを進めて今日に至っている。高橋礼二郎先生は、放送大学の講師もされていた関係で、多くの社会人学生の指導にもあたられており、面倒見のよい先生である。筆者もお世話になっており、今回の第77回目のたたら操業にお誘いいただいた。実際に参加することができたのは、後述する“まりもりホステル”をプレオープンしていただき、宿泊場所ができたことが大きい。古民家に宿泊して、たたら製鉄を体験するという環境が整ったわけである。

 

 慶長17年頃、キリシタンの武士、東海林備後が一族で筆甫に移住して来た。製鉄術を村人に教えたり、仙台藩に功があり、幕府のキリスト教徒迫害が強くなってきても仙台藩は、しばらく捕らえずにいたが、寛永15年東海林一族はとらわれた。

 

 東海林備後は現在ここに住む庄司氏の先祖で、マリア観音を礼拝するために屋敷の裏山に阿弥陀堂を建てた。仏像、阿弥陀像など数体がまつられ、付近の人の話しでは、かつて子どもを抱いた観音像があったようですが、どれがマリア観音か、現在は分からないそうです。

 

 今もたたら製鉄場の近くにあるマリア観音像。操業を見学に来ていた東北福祉大学大学院教育学専攻修士の学生さん(隠れキリシタンについて研究されている。)によれば、隠れキリシタンの下地としては“アンジロウ”という薩摩からマレーシアに逃亡した日本人の罪人の存在や、「神の前に平等」という教義が農民をはじめとする被支配者から後に“キリシタン大名”と呼ばれる支配者層に至るまで広く受け入れられたから、あるいは入植を試みたイエズス会の布教方針が侵略的ではなかったから、といった様々な説があるとのこと。

 

 また、東北(主に宮城県)ではそうした経緯で広まったキリスト教が武士や職人などを通じて、西欧技術とともに広まっていったとする説と、伊達政宗の慶長遣欧使節と関連させる説と、2つが有力視されているそうです。修士論文が完成して、これについてのお話を聞かせていただけるのを楽しみにしたいと思います。製鉄との関連も調べていただきたいとお願いしておきました。

 

 筆甫は、ウバヒガン桜が満開 4月17日のお祭りのために準備中。たたら製鉄もこのお祭りに日にちを併せて実施した。

 

 

写真

 

 

 たたら製鉄が盛んであった地域は、大量の木炭が供給でき、良好な砂鉄を産する地帯が近くに存在することである。

 

 丸森町内の産物では、米・大豆・麦類を除いて、材木、鉄、紬、髪、鮭、馬、炭、柿、繭に関する資料が見つかっている。鮭は塩鮭の作り方、馬は、町場の利益を計って開いた馬市が、次第に衰えたので5年後に差し出した廃止願いである。伊達郡の木挽が筆甫で木挽を職業とする願書、小鍛冶を職業とする願書、筆甫村百姓が炭焼を職業とする願書などが見つかっている。

 

 阿武隈川の舟運は、寛永四年(1664年)に福島県の信夫・伊達の二郡が、上杉藩から幕府の直轄地と(天領)となった年を契機として、急速に盛んになった。

 

 渡辺友意・河村端賢の舟の改良と航路改修によって、この年貢米(廻米・御域米)ばかりでなく、山形県の天領の年貢米まで、阿武隈川岸より一緒に荒浜まで廻送された。

 

 水沢(丸森)とその対岸の沼ノ上(耕野)を境にして、上流は潜岩(くぐりいわ)・猿跳の難所があるので小鵜飼船で下り、沼ノ上で下流の艜(ひらた)船に荷を積み替えて運んだ。

 

 たたら製鉄がうまくいく条件は、

 一に砂鉄の品質、二に十分な炭木山、三に良質な元釜土、四に養い米の安いこと、五に船着き場への便のよさ、六に優れた鉄山師、七に鉄山職人の腕の良さが挙げられている。

 

第77回筆甫たたら操業

写真 操業は9時から開始の予定だったが、残念ながら炉温が上がらずに最初の砂鉄の装入は10時半となってしまった。前日から温度を上げて炉を燃焼乾燥していたが、早朝、氷が張るほどの冷え込みが原因で あろうか?そしてこの時点で、筆甫から千葉へ帰る時間を逆算すると、肝心の鉧出しまで居ることができないことが決定した。

 

 砂鉄:実験初期のころは、史実に忠実に福島県・中浜、釣師浜などに出かけて海砂鉄を使用されていたが、テトラポットに埋め尽くされ、今では阿武隈川河畔の川砂鉄を使用している。

 

 木炭:たたら操業には松炭が最適であるが、最近は鍛冶で用いるマングローブ炭を使用。

 

 炉:円筒竪型炉である。筆甫では製鉄遺跡が発掘されていないので、当時の炉の形状が分かっていない。そのため、宮城県多賀城市・柏木遺跡製錬炉を参考としている。一か月前に製作し、自然乾燥と前日に燃焼乾燥を行って実験に使用している。前日の土曜日に引地さんをお訪ねした時、燃焼乾燥を行っていた。

 

 1回の砂鉄装入量は、1㎏と一定。

 

 木炭は1回目のノロだしまでは2㎏、ノロだし中は、ノロだし直後には3kgとするが、他は1.5㎏とした。ノロだしが終了した最終までの10回は、1㎏の装入としていた。

 

 装入間隔は、平均8分間毎とのことであるが、今回の操業では温度が上がりすぎたためもあるのか、それより早い頻度での投入、平均で5分間隔となった。砂鉄30㎏、木炭52.5㎏使用した。筆者は残念ながら、22回目の装入までしか居られなかったが、1回目からノロが出すぎていたのと、炎が上がりすぎていたことを心配しながら、帰路についた。残念ながら予想が当たってしまったようで、収穫は3㎏程度だったとのこと。

 

 お土産にいただいたタラの芽及びこごみは、昨晩天ぷらでおいしくいただきました。へそ大根は、本日いただきます。

 

 4月の筆甫は、春が一度に来たような、桜はもちろんですが、水仙、水芭蕉、芝桜、椿、花桃、梅を一度に鑑賞できました。山菜も豊富です。

 

 訪れてみたいとおもわれましたら、アイアールユニバース 鉄子にご連絡ください。

 

 古民家の宿泊所をご紹介させていただきます。阿武隈川舟ライン下りも復活したとのことです。

 

ゲストハウス | まるもりホステル | Marumori (marumori-hostel.com)

筆甫 – スポットの地域 – まるもり – 丸森町観光案内所 (marumori.jp)

 

 

(IRUNIVERSE tetsukoFY)

 

 

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