先日、古い映画『男はつらいよ』シリーズで、寅さんがなぜかウィーンへ行く話を観ました。オーストリアの航空会社とタイアップし、オーストリアの観光PRを狙ったものらしく、ストーリーにはかなり無理とこじつけがあり、首を傾げるものでしたが、それで思い出した記憶があります。今回はそれについて駄文を書きます。
もう30年ほど前になります。1990年代に筆者がロンドンの事務所に勤務していた頃の話です。
朝のミーティングで、M事務所長が日本からの出張者の予定について説明していました。「小倉製鉄所のY所長(取締役執行役員)が、今度オーストリアに出張されるそうだ」。当時、取締役クラスの海外出張には現地事務所の駐在員がアテンドするのが普通でしたし、重役でなくても、海外出張者や海外派遣者の安全確保は事務所の重要な任務の一つでした。
そこで、重役のお供をするのが大好きなKさんが「それなら僕がご案内しましょう。僕ならドイツ語もOKですし」と早速手を挙げます。しかし、M事務所長は、首を傾げて「今回の出張は、駐在員の同行は無用。欧州事務所にも立ち寄らないとのことだ。何でも、Yさんは、過激派で国際指名手配されている人物と同じ名前で、以前の海外出張時に入国審査で引っ掛かって大変な目に遭われたそうだ。だから同行する駐在員に要らぬ迷惑をかけてはいけないから・・ということで、ロンドン事務所の世話にはならない・・とのことだ」。
これは不思議な説明です。トラブルが起こる可能性があるなら、なおさら現地駐在員のサポートが必要になるはずなのですが・・・。
「一応、手続きとしてロンドン事務所には連絡する・・という小倉製鉄所からのFAX(当時はFAXでした)なのだが、オーストリアでの訪問先はザルツブルグとのことだ」。
この説明が理解できません。どうしてザルツブルグなのか? 当時、オーストリアは鉄鋼業界でそれなりに重要な存在でした。ご存知の方には失礼ですが、オーストリアは東西に延びた国で、その北東端にウィーンがあります。そのウィーンを流れるドナウ川を上流に遡ると、つまり西に進むと工業都市リンツがあります。そこでドナウ川を離れさらに西に行くと、音楽の都ザルツブルグに着きます。重要なのはこの3都市です。
ウィーンは東西冷戦下では東側世界への入口になっていた都市であり、旧東欧諸国の鉄鋼業界の情報を得たり、それらの国の製鉄会社への設備・技術の売り込みをする拠点になっていました。筆者の勤務先も一時期、ウィーンに駐在員事務所を置いていました。しかし、1980年代末に東西冷戦が終結し、東西の壁が無くなると、ウィーン事務所の必要性は無くなりました。デュッセルドルフ事務所やロンドン事務所で、業務を代替し、ウィーン事務所は閉鎖されました。
一方、リンツは鉄鋼業界にとって常に重要な存在でした。フェースト・アルピネ社の主力製鉄所があり、小粒ながら革新的な技術を有して製鉄技術をリードしていました。当時、フェースト・アルピネ社は神戸製鋼と技術提携していました。
第二次大戦後の製鉄業界三大発明の一つであるLD転炉は、リンツとドナビッツの2つの製鉄所で開発され、それらの頭文字を取ってLD転炉と言われます。LD転炉は、塩基性耐火物でできた炉に、超音速で高圧の純酸素を上から吹き込むシステムで、それまでの平炉に比べて、鋼の生産性を一気に数十倍に上げました。LD転炉をいち早く導入した会社や国が、製鉄産業で覇権を握ったのです。
川崎製鉄(当時)のK―BOPだって、住友金属(当時)のSTBだって、所詮LD転炉の派生型に過ぎません。
それに加えて、リンツには自動車メーカーAudiの組み立て工場がありました。
特に大型の乗用車であるA8のボディを作っていたのですが、革新的なアルミボディを採用していました。プレス成形、溶接、塗装どれをとっても鉄鋼とは違い、こちらも注目の的でした。
そのような工業都市であるのに、リンツは落ち着いた、古き良き街(アルトシュタット)であり、街の中心の繁華街も美しい街並みで、暮らし易そうな街でした。
もう一つのLD転炉誕生の町であるドナビッツには、いまもプライメタルズの拠点があり、製鉄設備の開発・製造・販売の中心地になっています。
だから、ウィーンやリンツ、あるいはドナビッツへの出張であれば、よく理解できるのですが、ザルツブルグへの出張とは?なぜなのか?ザルツブルグには製鉄所も研究所もありません。
ザルツブルグはモーツァルトの育った町であり、毎年夏に開かれるザルツブルグ音楽祭が有名です。世界各国からクラシック音楽ファンが訪れるとのことです。しかしそれは観光客であり、ビジネスの出張ではありません。
そこで筆者は思い出しました。Yさんは熱烈なクラシック音楽ファンであり、造詣も深かったのです。しかし製鉄所の工場長や部長をしていれば、まとまった休暇はとれませんから、海外に音楽を聴きにいくこともかなわなかったはずです。
筆者の思いに気付いたのか、Y事務所長は独り言を言います。「うちの会社で偉くなる人は、皆さん若い頃に歯を食いしばって努力し、競争に打ち勝ち、自己犠牲の上に、やっと現在の地位に辿り着いたのだ。サラリーマン人生の終わりに近くなって、やっと組織と金がいくらか自由になった訳で、少しぐらい好きに行動しても大目に見るべきではないか?」
実は当時、役員には一つの役得として海外出張の機会が与えられ、その海外出張時にハメをはずして遊ぶ人も多かったのです。重役なのだから当然の権利であり、応対した駐在員は、それについては一切口外しないのがお約束でした。Y事務所長の言葉は彼らと会社のシステムを弁護しているようにも聞こえます。
筆者はそれを聞いて思い出しました。これは三井財閥の大番頭(三井物産社長)から国鉄総裁を歴任した硬骨漢、石田礼助の言葉と似ているなと。
彼の伝記とも言うべき『粗にして野だが卑ではない』に登場するエピソードに、三井物産が赤字決算で経営に窮した時の話がでています。当然ながら重役達の報酬をカットする提案が出されたのですが。(当時役員手前だった)石田は報酬カットに反対しました。
「皆、高額報酬を夢見て、苦労して今の地位に辿り着いたのだから、それをカットするのは気の毒だ。役員賞与のカットに象徴的な意味はあるが、赤字を減らす効果は知れている」と彼は主張したそうです。なるほど自分が重役を目指す人は重役の振る舞いに寛容なのかな?
しかし、会社の出張にかこつけて個人的な趣味の旅行をするのは・・少し違うと思います。『粗にして野だが卑ではない』に照らして言えば、十分に卑(mean)な行為と言えます。さらに言えば、小倉製鉄所の経営状況という厳しい現実がありました。
今はなき小倉製鋼(小倉製鉄所の前身)は浅野財閥を中心に九州の財界人が集まって、八幡製鉄所の技術に頼って、設立した小規模な高炉メーカーでした。
しかしスケールメリットがものを言う世界で、高炉も製鉄所も規模が小さく、コスト競争力が乏しかったのです。コークス炉もトーピードカーもありませんでした。更に問題なのは製品構成です。線材条鋼が主体で、特に普通線材は電炉と不毛な価格競争をする不採算品種でした。
かつて製鉄業界は、黒字と赤字を繰り返す、いわば「平泳ぎ」の業界でした。一掻き毎に顔を水面上に出して息継ぎする訳ですが、小倉の場合はなかなか水面上に顔を出せませんでした。何年かに一度、黒字決算を出して一息つく言わば「潜水泳法」だったのですが、口が悪い人は「あれは潜水泳法どころじゃない。マッコウクジラだ」と言いました。深く深海に潜り、忘れた頃に水面に顔を出して一瞬だけ潮吹きするという意味です。
その中で現場の作業員も技術者もそして営業担当も、文字通り血の滲むような努力を続けていました。高炉の作業員が使う耐熱手袋は、焼け焦げで穴だらけになっても、それを裏返して繕いながら使用していました。技術者は普線メーカーから脱出し、少しでも高付加価値で採算性の良い製品を開発しようとしました。タイヤのスチールコードの素材や、エンジンの弁バネの素材、超高品質のベアリング材料、冷鍛素材や非調質鋼など、数々のヒット商品を作り出し、何年かに一度の「息継ぎ」を実現していました。
それでも採算は厳しく、特に収益を事業部別に管理するようになってからは、小倉(条鋼事業部)の給与や賞与はカットされ、更には厳しいリストラが実行されました。幸いだったのは、北九州が都会であり、リストラされても再就職先が比較的に多かったことです。これが鹿島だったら・・地元での再就職は難しく、鹿島を離れるしかありませんでした(経験者は語る・・・)。
Y所長は、筆者に「俺の手柄なんてどうでもいい。俺が就任したからには膿を出し切る」と言い、実際に歴代の小倉所長が隠していた赤字や不採算の実績を全部表面に出して計上しました。その結果、Y所長時代は特に赤字額が大きかったのですが、これは後任の製鉄所長にとってはありがたいことです。しかし、部下の社員にとっては辛いところです。たまったものではありません。赤字決算で賞与カットやリストラや進むのですから。
Yさんは製鉄所長退任後に、東北の石灰石の鉱山会社の社長になりましたが、そこでも決算を繕ったりせず、堂々と赤字を計上していました。
それはいいのですが・・・、部下が塗炭の苦しみの中で仕事をしているのに、組織のトップが個人的趣味の出張をしていいのか? やはり役得や論功行賞としてのお遊びの海外出張はおかしいのではないか? meanではないのか?と筆者は思います。
まあ、いずれにせよ、このエピソードは平成の初めの頃の話です。今はそんなことは無いでしょう。
ここから私事になりますが、お許しください。筆者の長男は、北海道のある研究所に勤務しております。しばしば出張で茨城県つくばにある本部を訪れますが、同じ茨城県にある拙宅には決して寄りません。出張のついでに実家に帰るというのは公私混同であり、愚息の理解では不適切な行為となります。ある時などは、私用で茨城県の拙宅に帰省した後に帯広空港に戻り、その翌日、帯広空港からトンボ返りで出張に出かけていました。
筆者は息子の態度に感心し「天晴れ!」と言いたい気持ちで「お前のような下っ端でも、ちゃんと公私のけじめをつけているのは見事だ」と言った訳ですが、彼はムッとした様子で「確かに僕は下っ端だけど、業務の遂行で求められる倫理観に下っ端も上役もないんじゃないか?」と言い返してきました。
どうも、相手を褒めるつもりで、かえって傷つけたり怒らせるのは、筆者の愚かな癖のようです。反省しきりです。そして、今後、息子が海外出張しても、音楽会などには行かないだろうな・・・などとくだらないことを考えます。
ところで、LD転炉を生み出したフェースト・アルピネ社ですが、今カーボンフリー化の流れの中で、新たな大型電気炉をリンツ製鉄所とドナビッツ製鉄所に設置する工事を進めています。JFEや東京製鉄が進める大型電炉とどう違うのか? 実に興味深いところです。筆者はパスポートも更新したことだし、是非IRuniverse社から、リンツとドナビッツの現地視察に派遣してくれないかなぁ・・などと夢を見ます。イタリアのダニエリ社などとツアーを組むのもいいかも知れません。
勿論、ザルツブルグには寄りませんし、音楽祭にも興味はありません。悲しいかな、筆者は恐ろしい音痴で、クラシック音楽は全く分からないのです。
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久世寿(Que sais-je)茨城県在住で60代後半。昭和を懐かしむ世代。大学と大学院では振動工学と人間工学、製鉄所時代は鉄鋼の凝固、引退後は再び大学院で和漢比較文学研究を学び、いまなお勉強中の未熟者です。約20年間を製鉄所で過ごしましたが、その間とその後、米国、英国、中国でも暮らしました。その頃の思い出や雑学を元に書いております。
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