ようやく日本でも、炭素取引が本格的に始まろうとしています。これまで海外の動向を横目に見ながら議論が進められてきましたが、いよいよ実際の市場が立ち上がる段階に入りました(本格的な取引のスタートは来年と言われています)。企業経営においても、CO2排出量を「コスト」として認識する時代が、現実のものになりつつあります。
日本版の排出量取引制度であるGX-ETSについては、すでに試行的な枠組みが動き出しており、参加企業も徐々に増えています。現時点では制度設計の最終調整が続いている段階ですが、排出枠の割当方法や取引ルール、さらにはクレジットの活用範囲などについて、実務的な検討が進んでいます。市場としては、当初は流動性を確保するため比較的緩やかな設計となる可能性が高く、価格も落ち着いた水準からスタートするのではないかと見られています。
では、炭素価格とは実際どのくらいの水準なのでしょうか。この点を考えるうえで参考になるのが、先行する欧州の事例です。EU-ETS(欧州排出量取引制度)では、炭素価格がすでに1トンあたり数十ユーロから100ユーロ近い水準で推移する場面も見られています。日本円に換算すると、1トンあたり1万円を超えるようなイメージです。
なぜここまで高い価格がついているのでしょうか。その理由は単純に規制が厳しいから、というだけではありません。欧州では長年にわたり制度運用が続けられる中で、排出量削減が着実に進みました。その結果、単に「量を減らす」だけでなく、「どのように減らしたか」という質の議論が強く求められるようになったのです。
たとえばクレジット一つをとっても、本当に追加的な削減なのか、ダブルカウントは起きていないか、長期的に持続可能なのか、といった観点で厳格な評価が行われるようになっています。こうした質の担保が進むことで、市場に流通するクレジットの信頼性が高まり、その結果として価格も押し上げられてきた、という構図です。
言い換えると、排出削減が進んだからこそ価格が上がった、という側面があるわけです。これは一見すると逆説的ですが、実は非常に重要なポイントです。単に規制が厳しいから高いのではなく、質の高い削減努力が評価される市場が形成された結果としての価格上昇なのです。
この流れは、日本においても無関係ではありません。今後、GX-ETSのもとで排出削減が進み、企業間での比較や評価が高度化していけば、より信頼性の高いクレジットへの需要が高まることは十分に考えられます。そうなれば、必然的に価格は上昇してゆく可能性があります。
一方で、制度発足当初の日本市場については、やや異なる様相を見せるかもしれません。現状では海外クレジットの活用も一定程度認められる方向にあり、供給面では比較的余裕がある状態からスタートすることが想定されます。このため、当面は比較的安価な価格帯で推移するのではないか、という見方も成り立ちます。
参考までにアジアの状況を見ると、中国の排出量取引市場はすでに世界最大規模に成長していますが、価格水準は欧州に比べると低めにとどまっています。制度のカバー範囲や規制の厳しさ、さらには市場の成熟度の違いが影響していると考えられます。また韓国も独自の排出量取引制度を運用していますが、こちらは比較的安定した価格帯で推移しており、政策的な調整の影響を受けやすい市場といえます。
このように各国の市場を見渡すと、炭素価格は一律に決まるものではなく、制度設計や政策意図、さらには市場参加者の行動によって大きく左右されることが分かります。
さらに言えば、炭素市場は純粋な需給だけで動くわけでもありません。国際関係の変化やエネルギー政策、あるいは地政学的なリスクなど、さまざまな要因が価格形成に影響を及ぼします。実際、欧州でもエネルギー危機の影響で価格が大きく変動した時期がありました。
日本においても同様に、市場を巡るさまざまな思惑や外部環境の変化が価格に影響を与える可能性は十分にあります。大まかなイメージとしては、比較的低い価格でスタートし、制度の成熟とともに徐々に上昇していく、というシナリオが描きやすいのですが、実際にどのような軌道をたどるかは、ふたを開けてみないと分からない部分も多いと言えるでしょう。
もう一つ重要なのは、認証制度の運用です。どのようなクレジットが認められ、どのように評価されるのか。この基準が市場の信頼性を左右し、ひいては価格形成にも大きな影響を与えます。ここがしっかりと設計され、透明性の高い運用がなされるのであれば、日本市場は大きな成長余地を持つことになります。
炭素価格は単なるコストではありません。それは企業の取り組みの質を映し出す指標であり、新たな価値創造の源泉にもなり得るものです。社会にとって望ましい行動が、経済的なリターンとして評価される仕組みが整いつつある、と捉えることもできるでしょう。
これから立ち上がる日本の炭素市場が、どのような価格を形成し、どのようなビジネス機会を生み出していくのか。その行方を見守りながら、自社としてどのように関わっていくのかを考えることが、これからの経営にとって重要なテーマになってくるのではないでしょうか。
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西田 純(循環経済ビジネスコンサルタント)
国連工業開発機関(UNIDO)に16年勤務の後、コンサルタントとして独立。SDGsやサーキュラーエコノミーをテーマに企業の事例を研究している。武蔵野大学環境大学院非常勤講師。サーキュラーエコノミー・広域マルチバリュー循環研究会幹事、循環経済協会会員