【コモディティと人物余話】 綿製品の着用で英国に抵抗したインド建国の父-マハトマ・ガンジー

20世紀前半、英国の植民地政策に抵抗するため、民衆たちにインドの綿製品を着用するよう呼びかけたのが「建国の父」と称された政治指導者、マハトマ・ガンジーだった。(写真はYahoo画像から引用)
ガンジーは1869年10月2日、英国領にあったインドのグジャラート州ポールバンダルで生まれた。彼は20世紀の偉大な政治指導者として称賛されているが、幼少期は素行が悪く、おとなたちが大いに手を焼いたという。
18歳のとき、ガンジーは弁護士を目指すため、ロンドンに留学。卒業後、南アフリカで弁護士活動に従事した。ここで人種差別に遭ったことが人生の転機となった。当時、南ア社会は白人優位の人種差別政策下にあった。このときの差別体験を通じて、ガンジーは当地でインド系移民の法的権利を擁護するようになった。
帰国後、ガンジーはインドで政治活動にかかわるようになる。「非暴力、不服従」運動を展開することで英国からの独立運動を指揮した。何度も投獄されたり、拘禁されるなどの辛苦を味わったが、ガンジーらの運動はやがてインドを独立へと導く。1947年、インドは英国の支配から解放された。
ところで、ガンジーが独立運動の拠点としていた場所がグジャラート州のサバルマティ・アシュラムと呼ばれる施設だった。インドはもともと、綿織物の原料として綿花を栽培し、インド産綿布として英国に輸出していた。ガンジーはアシュラムで綿糸と手紡ぎ車による布の生産に乗り出すとともに、インドの綿製品を着用するよう民衆に呼びかけた。英国の植民地政策に対抗意識を示すためだった。
1947年8月、パキスタンはインドから分離独立を遂げた。ヒンドゥー教の原理主義者から譲歩したとして、ガンジーは反感を買ってしまった。翌年1月、遭難したガンジーは人生に終止符を打つ。ピストルで顎を射抜かれた際、額に手を当てながら息を引き取った。この所作はイスラムの教えで「あなたを許す」という意味だそうだ。
民衆の非暴力・不服従による抵抗運動を貫いたガンジーの生き様は、米国で黒人差別撤廃に取り組んだマーティン・ルーサー・キング・ジュニアや、南アで公民権運動に立ち上がったネルソン・マンデラ(後の大統領)らに勇気と希望を与えたとされる。
在原次郎
グローバル・コモディティ・ウォッチャー。エネルギーや鉱物、食糧といった資源を切り口に国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。
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