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第53代明珍宗敬氏をお訪ねして@明珍鍛冶展 姫路山陽百貨店

2021/11/15 08:43 FREE
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 姫路駅からすぐ近くの山稜百貨店の美術画廊で11月10日(水)~11月16日まで「明珍鍛冶展」が開催中である。明珍家は、平安時代の甲冑師の流れをくむ鍛冶職人の家系だが、伝統を守り継ぎ、独自の挑戦を続けてきた52代宗理(むねみち)氏より当主交代53代宗敬(むねたか)を襲名され、その長い歴史に新たな一ページが加わった。約30年ぶりの世代交代である。

 

 新たな継承の当主の技、そして飛躍する刀工宗裕氏。明珍鍛冶の数々が一同に展示された明珍鍛冶展を取材した。

 

 その前に、現在は、「明珍火箸」で知られる兵庫県姫路市の鍛冶師である明珍家の歩みをご紹介しよう。

 

 明珍家の歴史は平安後期にさかのぼる。近衛天皇に鎧などを献上した際、轡の触れ合う音を「音響朗々、光明白にして玉のごとく、類いまれなる珍器」とたたえられ、明珍という姓を授かったと伝えられている。このことから、明珍家は常に「音の響き」を大切にして、時代に合わせ、柔軟に技術を継承し、生き残ってこられたと言える。

 

 現在、姫路市を代表する工芸品として親しまれているのが、「明珍火箸風鈴」であるが、これは昭和40年代に考案されたもので、伝統工芸品と呼ぶには、歴史的には新しい作品である。

 

 これは3度の存続の危機を乗り越えてきて完成した伝統工芸品であった。

 

 一つめの危機は明治維新であった。たたら製鉄も、この明治維新によって、大きな危機を、迎え衰退していったが、明珍家はこれを乗り越えた。

 

 江戸時代が終わるまで藩のお抱え甲冑師として安定した日々を過ごしていた明珍家であったが、廃藩置県によって禄を失い、甲冑の不要な時代が訪れたのであった。

 

 このとき当主は、当時の生活必需品であった火箸に活路を見出した。

 

 戦国時代の茶人、千利休のために火箸を作ったという故事にならったとも言われているが、この時の火箸も「触れ合うとよい音がする」と評判を呼び、最後には、志賀直哉の目に留まって、暗夜行路に登場することになったのであった。

 

 二つめの危機は、第二次世界大戦中、鉄不足を補うため出された金属回収令。この時の当主は、51代宗之氏であった。仕事のために抱えていた鉄という鉄すべてを排出させられ、火箸を作る材料が全く無くなった。このため、工房以外、家や財産、すべてが人手に渡ったとのことである。そんな苦難を経て戦後、ようやく火箸作りに打ち込める環境が整ってきた頃、三度目の危機が訪れた。“いわゆる「燃料革命」”である。家庭の燃料が炭から灯油やガスなどに代わり、火箸の出番がなくなってしまった。

 

 その頃、若かった52代当主宗理氏が、「風鈴や!」と思い立ち、試行錯誤の末、昭和40年に世にだしたのが火箸風鈴である。“音色”によって生き残れた明珍家。もはや火箸が存在し得ない時代に、手打ちの鍛冶仕事で火箸を残せたことは、宗理氏の偉業といえる。この先代のDNAを受け継いだ、宗敬氏の今後の活躍を、姫路の皆さんが応援している。

 

写真 山陽百貨店5階の美術画廊の入り口で、第53代、明珍宗敬氏に、やさしい笑顔で迎えていただいた。

 

 内部は、おちついた雰囲気で、手前に玉鋼でできた、火箸風鈴、奥の棚で光かがやいているが、波紋の美しい刀工宗裕氏の波紋の美しい刀である。手前の左にならんでいる“おりん:お鈴(チタン製・座布団・鈴棒つき)”である。すべて音色が異なり、小さなお鈴の高音も素敵ですし、大きなお鈴の低音も心落ち着く音色で、これも捨てがたい。

 

 

写真

 

 

 山陽百貨店にお越しになれない方は、こちらの姫路市立美術館で行われた際の映像と音をお楽しみください。

 

→【姫路市立美術館】インスタレーション作品「派生-太刀 明珍火箸-」ver.2 (文化観光拠点計画認定記念特別展「日本の心象 刀剣、風韻、そして海景」第2章) - YouTube

 

 なかでも、筆者のお気に入りの円形の釣台に下げられた動く花台である。またチタンの板を鍛錬して作製されたチタンの花台も明珍無宗敬氏の自信作である。

 

 

写真

 

 

 今回は、美術画廊のため、スーツ姿の宗敬氏であるが、横浜の高島屋で開催された日本の伝統展でのお姿もとても素敵でした。

 

 火箸に刻銘をされている明珍宗敬さま。

 

 

写真

 

 

(IRUNIVERSE tetsukoFY)

 

 

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