昭和30年代から40年代の頃です。住友金属小倉製鉄所(当時)の幹部はある種の行き詰りを感じていました。もともと八幡製鉄に寄生するような形で、浅野財閥などが趣味で始めた小倉製鋼でしたが、高炉一貫製鉄所とするには、敷地があまりに狭く、高炉はあってもコークス工場は無く、また紫川の河口の岸壁は水深が浅くて、大型の鉱石運搬船が接岸するのは難しかったのです。高炉自体も小型で生産性は低かったのです。
いや、そんなことはどうでもいいのです。大事なのは主要な製品が普線(普通鋼線材)とい低付加価値品で、いずれ電炉メーカーや輸入品と不毛な価格競争に巻き込まれ、経営が苦しくなることが火を見るより明らかでした。だから行き詰まりを感じていたのです。
その後、技術者達の血の滲むような努力で、製品群は、ラジアルタイヤ用のスチールコード素材、内燃機関の弁バネの素材、高級ベアリング素材、冷鍛用母材といった具合に、高付加価値品にシフトして小倉製鉄所は生き残っていくのですが、それでも人々はある種の閉塞感を味わっていました。
「そうだ!ここを脱出して鹿島に行こう」と考えた幹部の一人は筆者の義理の父です。当時分塊工場の副長だったそうです。彼は一緒に鹿島に行く部下を募りました。鹿島に行けば広い工場にある最新鋭の設備で仕事ができます。設備の規模も違います。工長止まりで燻っている部下にも作業長あるいはそれ以上に昇進するチャンスがあります。マイホームだって小倉よりはかなり安く買えそうです。
それに何より、鹿島に行けば、夏場でもクーラー無しでも暮らせるらしい・・という条件は魅力的でした。昭和30年代から40年代、まだエアコンはそれほど各家庭に普及していませんでした。そしてその頃、製鉄所の交替勤務者にとって厳しかったのは酷暑の季節の夜勤です。昼間、自宅で寝ようにも暑さのために眠れず、寝不足のまま夜勤をする訳ですが、これは体力を著しく消耗しました。夏の昼間、エアコンなしでも寝られるというのは憧れの環境でした。
実際のところ、現在の鹿嶋では夏のエアコンは必需品です。それでも都心や西日本に比べて、平均気温は2℃程度低いのではないか?と思います。筆者も独身寮時代はエアコンなしで暮らしていました。鹿嶋はある意味、首都圏の避暑地・・だったのです。
それでも抵抗する人は多くいました。小倉は伝統と歴史のある街でそこに暮らす人は愛着を持っていました。そこそこの都会で暮らしやすい土地です。何の因果で・・・というか、何の罰ゲームで、関東地方のしかも利根川の向こう側まで行かなくてはならないのか?
『伊勢物語』の在原業平でさえ江戸だったのに、その先です。『更級日記』では作者の菅原孝標女(むすめ)が「東路の道のはてよりも」という表現で、自分が田舎出身だと表現していますが、それでも上総(千葉県)です。佐原という田舎町の先に広がる砂丘をヒューヒューと風が吹く風景をイメージし、これから行く場所は「佐原砂漠」だ・・と、考えたそうです。
住友金属工業の本社でも、積極的に鹿島製鉄所の拡充を図っていて、西日本からの転勤を奨励しており、社宅も充実させていきました。既に鹿島では熱延工場が操業を開始し「元年者」とも言うべき社員が活躍していました。そこに第二陣として分塊工場の部隊が行くことになりました。
さあ部下達をまとめて小倉を出発です。
「そこで、モーゼのごとく杖で地面を突くと、関門海峡の水が割れて、歩いて本州に渡れたのですか?」と訊くと、義父から「茶化すな!そんな訳あるか」と叱られました。しかしその時代、新幹線は九州まで来ていません。ブルートレインの夜行列車で翌日の午前中に、東京に到着します。その日の晩は潮来のホテルに泊まり、翌日、鰐川(北浦)を渡って鹿島に到着するという長時間の旅だったそうです。
しかし、鹿島の暮らしにはやはり不満が多かったようです。まず海に近いのに新鮮な魚が手に入らなかったことが問題です。銚子港で陸揚げされた海産物はそのまま首都圏(東京)に運ばれ、鹿島には回ってこなかったのです。食べ物の味も微妙に違います。製鉄所の食堂で出されるうどんの出汁は関東風ではなく関西風の味付けでした。それに田舎ですから、どこに行くにも自動車が必要です。病院や医院も不十分です。実に不便です。
次に教育の不満です。子供を大学に進学させたい親は進学校が鹿行地区に無いことが不満でした。優秀な生徒は水戸一高や鉾田一高に進学しましたが、下宿する必要もあります。鹿島にも進学校が欲しいということで「鹿島にも灘高を!」とスローガンのもと、会社は私立の中高一貫の学校を作りました。今の清真学園です。まだとても本物の灘高ほどの進学実績はあげていませんが・・。
次に考えたのは独身の男性社員のお嫁さんの確保です。田舎でしかも男性が圧倒的に多い職場で仕事をしていれば、女性を知り合う機会もありません。それに製鉄所で働く女子社員も不足していました。
会社は清真学園に女子短大を作り、そこの優秀な卒業生を製鉄所で雇うことにしました。無論、優秀な女子社員を確保したいという思惑もありましたが、男子社員の結婚相手になる人を採用するという深慮遠謀もありました。
こちらの方は一定の成果を挙げましたが、やがて女子短大の不人気化により、閉校になりました。
会社の方針では、西日本からの独身の転勤者がやがて鹿島に馴染み、地元の娘と結婚して家庭を持ち、鹿島の地域社会に溶け込んでいくのが理想でした。さらに地元で採用した若手社員が会社の中核になることを夢見ました。人々の融合と同時に、よそ者だった製鉄所が地元の企業として認知される日を期待していました。筆者の私見ですが、それが本当に実現したのはJリーグが発足した年に鹿島アントラーズが優勝した瞬間ではなかったかと思います。
率先して鹿島に転勤した義父としては、連れて来た人々が、そのまま鹿島の周辺にマイホームを建て、定年で製鉄所を離れた後に鹿島に残って暮らして欲しい・・・と思っていましたが、残念ながらそうはなりませんでした。
定年を迎えた多くの社員は、自分の故郷に帰ってしまいました。陶淵明なら「帰(かへ)りなんいざ。田園将(まさ)に蕪(あ)れんとす、胡(なん)ぞ帰らざる」と詠むところでしょうが、皆さん「親の介護が必要になりまして・・」とか「故郷に家と田畑があって、それを引き継がなければ・・」と言って、西日本に帰ってしまいました。
言い出しっぺの義父は、頑固に「俺は鹿島に残る」と言って、定年後も鹿島に暮らし、鹿島で亡くなりましたが、仲間が次々と九州へ帰るのを、少し寂しく見送っていたようです。
脱線しますが、英語には、”a place for to die“と言う表現があります。Brothers fourの曲“The green leaves of summer”には ”a place for to die“という歌詞が登場しますし、映画『カサブランカ』では、ハンフリーボガードが”Casablanca is a nice place for to die”と話します。しかし、多くの人にとってこの「サハラ砂漠」は仕事をするための場所であって、余生を送り人生を全うする場所ではなかったようです。
筆者が思うにその理由はさまざまです。一つの理由は企業城下町で見られる、社宅文化です。多くの社員は社宅を出て、会社が用意した分譲地にマイホームを建てましたが、あまり快適ではなかったようです。一つは一律50坪という分譲地の敷地面積です。都会の方から見れば十分に広いように見えますが、田舎では一家に自動車が複数台あるのが普通です。駐車場を確保したら猫の額の庭が鼠の額ほどになってしまいます。窮屈であり、家が古くなり、子供も巣立ったら離れたくなります。もはや会社が用意した小見川や東庄、沼尾の団地に住み続ける必要などなく、それなら故郷へ帰ろう・・となります。
そして、一番の問題は人間関係です。社宅や団地では、会社内の人間関係や上下関係をそのまま引きずることになります。かつて他の製鉄会社ではホワイトカラーとブルーカラーで独身寮や社宅の棟を分けていました。住友金属鹿島では、社宅は同じでしたが、独身寮はホワイトカラーとブルーカラーで分けていました。そして会社の用意した分譲地にマイホームを建てたのは、殆どブルーカラーの人達です。不思議なことですが、会社の中の上下関係や昇進速度に拘るのはブルーカラーの人に特に多いようです。実際には、昇進してもそれほど給料は変わらないのですが・・・。
そして悲しいことに、定年後も会社員時代の上下関係を引きずる人がいます。かつて上司だった人は、かつて部下だった人に、何時までも上司として接します。はなはだしきは「俺が引き上げてやったのだ」と何時までも恩着せがましく振る舞う人がいます。部下だった方も、何時までも、かつての上役を立てたりします。職場のOB会に出席して残念に思うのは、そんな光景を見る時です。
でもまあ、それが同窓会やゴルフ会の時ぐらいならいいでしょうが、日常的となると・・困ります。社宅時代に窮屈で嫌な思いをし、社宅を出た後も同じ団地のマイホームで、さらに定年退職後も同じ思いをするとなると、それは逃げ出したくなります。
小倉から鹿島に集団で引っ越したエクソダスから55年経った今、空き家の増えた小見川団地を見て、筆者が思うのはそんなことです。福岡県にはかつて筑豊炭田の長屋(炭住)がありました。だから社宅の生活には理解があったのでしょう。しかし、せっかく新しい鹿島の土地に来てまで、社宅や団地で不愉快な思いをするのはイヤだったと思います。だから会社を辞めたら帰ってしまったのです。時代も昭和から平成、令和と変化しています。もはや社宅のシステムは日本では流行らないのかも知れません。会社の意向では、鹿島に転勤した後は、そこを「約束の地」として、屯田兵のように根付いて欲しかったのに、そうはならなかったのです。
今、時代はDXの時代です。出勤の必要さえ減って来て、勤務地と居住地の自由度も増しています。でも一方で会社の構造が流動化する中で転勤の必要性はかえって増加しているようです。
日本製鉄は、国内の生産をどんどん減らし、国内の製鉄所を整理縮小していく計画です。その一方で、海外での生産は増やすようで、これからは海外勤務も当然になります。もはや、利根川の先に暮らすことをためらう時代ではありません。海外の製鉄所に勤務することをためらうようでは、淘汰されてしまいます。
日本製鉄は50人の技術屋を買収したばかりのUSスチールに早速送り込むそうです。ピッツバーグは落ち着いたいい街ですが、日本人学校はおろか、日本の食品を扱う店もなさそうです。そこで派遣された技術屋は、骨を埋める覚悟で頑張れるのか・・・少し心配です。
それとも派遣された社員は任期付きで、数年したら日本に帰ってくる前提なのかな?それはそれで問題です。現地のUSスチールの社員と本当に一体になれるのか心配です。それで良いのか?
筆者がもし橋本会長なら、”Pittsburgh is a nice place for to die”と言って、技術者達を送り出すところですが・・・。
***********************
久世寿(Que sais-je)
茨城県在住で60代後半。昭和を懐かしむ世代。大学と大学院では振動工学と人間工学、製鉄所時代は鉄鋼の凝固、引退後は再び大学院で和漢比較文学研究を学び、いまなお勉強中の未熟者です。約20年間を製鉄所で過ごしましたが、その間とその後、米国、英国、中国でも暮らしました。その頃の思い出や雑学を元に書いております。
***********************