【コモディティと人物余話】 東京米相場のメッカ「蠣殻町」をつくった男-実業家の米倉一平

明治期に米市場づくりに奔走した男がいた。実業家の米倉一平だ。米倉は西郷隆盛の屋敷跡を買い取り、そこを米取引の拠点とした。その場所が東京・日本橋蠣殻町(蛎殻町)で、数年前まで東京穀物商品取引所ビルの所在地だったところだ。(画像はyahoo画像から転載)
米倉は天保2年生まれ、出身は豊後(現在の大分県)。慶応4年、鳥羽・伏見の戦いで功をたて、明治4年に上京し、第五国立銀行(三井住友銀行の前身)の取締役に就いた。かつて蠣殻町一帯には西郷隆盛の屋敷があり、その広さは一万坪に及んだという。鹿児島に引き揚げる西郷と旧知の仲だった米倉は、この屋敷跡を700円で譲り受けたとされる。そして米倉は辺りに数百件の米屋を開業させた。
米倉の米市場づくりが本格化したのが、明治9年だ。この年の8月,米商会所条例が発布される。明治7年に発足した中外商行社は東京蠣殻町米商会所に再編された。東穀取が作成したパンフレット『戦前における東京の米穀取引所』によると、蠣殻町米商会所の頭取に川上助八郎が就任するが、事実上の運営は副頭取の米倉に委ねられていたという。
他方、ライバル関係にあった東京兜町米会所。明治16年、両取引所が鎧河岸をはさんで営業することは双方の利益につながらないとし、同年5月、政府の許可を得て合併、新たに「東京米会所」としてスタートを切ることになった。
さらに明治26年3月、取引所法の発布に伴い、東京米会所は「東京米穀取引所」に再編成されることになる。初代理事長のポストに就いたのが米倉で、明治期に通算15年にわたり蠣殻町市場の指導者として活躍した。明治41年9月には、東京米穀取引所と東京商品取引所が合併、名称を「東京米穀商品取引所」と改めた。
時代を経るに従い、幾多の変遷を重ねてきた取引所再編劇も国家統制の前に足踏みすることになる。昭和14年の米穀統制法の制定で、米穀取引所は全面的に廃止される憂き目に遭った。
在原次郎
コモディティ・ジャーナリスト。エネルギー資源や鉱物資源、食糧資源といった切り口から国際政治や世界経済の動向にアプローチするほか、コモディティのマーケットにかかわる歴史、人物などにスポットを当てたリサーチを行なっている。『週刊エコノミスト』などに寄稿。
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